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なめとこ山の熊 宮沢賢治

「なめとこ山の熊」小学生の頃にこれを読んだ。殆ど内容は忘れてしまっていたが、子熊と母熊の会話がたいそう美しく可愛かったのと、物語最後の場面は文章で覚えてはいなかったが、その場面の風景は何となく心に残っていた。

パワーアニマル中の熊(ヒグマ、ツキノワグマ)の作成前に、これをもう一度読み直してみた。物語は小十郎という年老いた猟師と、なめとこ山に棲む熊たちの不思議な関係を語ったものだ。なめとこ山は当初、賢治の作った架空の山と思われていたが、1990年代になって明治初期の岩手県管轄地誌に「那米床山」の記載が見つかり実在の山であることが分かった。それは岩手県花巻市の西方、岩手郡雫石町との境にある奧羽山脈に属する標高860メートルの山だった。

主人公の小十郎のモデルもいるようだった。

小十郎は猟師だ。熊にとっては憎むべき相手なのだろうと思ってしまうが、この話の中では熊たちは小十郎の事が好きなのだった。小十郎は撃つべきでない時を知っている猟師で、所構わず獲物に銃を向けるような猟師ではないことを、熊たちは知っていたのかもしれない。

ある時、仕留めた熊を町の荒物屋に売りに行く場面があった。熊の皮と胆を荒物屋に二束三文の安値で売るしかないのだが、賢治はその場面をこう結んでいる。(僕は暫くの間でも、あんな立派な小十郎が二度と顔も見たくないような嫌な奴に、うまくやられることを書いたのが癪にさわってたまらない。)と。これは少十郎と店の主人とのやり取りに対しての言葉で、もしかすると当時は実際に猟師達の立場は弱かったのかもしれない。それと関連するのか分からないが、明治時代にあった東北地方の鷹匠の実話を読んだことがあり、それと通じるものがあったようにも思えた。

また、二ホンオオカミ繋がりで山神信仰について調べていた時、山神が里に降りて田の神となるいわゆる去来交代の実態が、五穀豊穣などの祭りの中に残っているのを読み、その中で、山の民(狩猟、焼き畑、畑作民)と、里の民(稲作農耕民)の微妙な関係が浮き彫りになっていた。生産基盤の異なる二つの別の民族といった感じがしたのだが、この場面にもその両者の微妙な関係が残されている様に思えたのだ。

「なめとこ山の熊」の話に戻ると、適度な距離を保っていた小十郎と熊であったが、ある日その時がやって来る。

熊はそれを小十郎とは思わずに襲ってしまう。倒れた小十郎に気付いた熊は「おお、小十郎、お前を殺すつもりはなかった」そう言うが、小十郎は帰ってはこなかった。
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『まるで氷の玉の様な月が空に掛かっていた。雪は青白く明るく水は燐光をあげた。昴や参の星が緑や橙にちらちらして、呼吸をするように見えた。その栗の木と白い雪の峯々に囲まれた山の上の平らに黒い大きなものが、たくさん輪になって集まって各々黒い影を置き、回々(フイフイ)教徒の祈る時の様にじっと、雪にひれ伏したままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月の明りで見ると、一番高いとこに小十郎の死骸が半分座った様になって置かれていた。思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてる時のように冴え々して何か笑っているようにさえ見えたのだ。本当にそれらの黒い大きなものは参の星が天の真ん中に来ても、もっと西へ傾いてもじっと化石したように動かなかった。』

熊たちが小十郎を取り囲み、天に送ったその場面だ。まるでアイヌの熊送りの儀式の様に思える場面。ここでこの物語は終わった。

パワーアニマルの為の(熊)を思った最初の時、癒しやシャーマンという言葉が浮かんで来たように感じた。この物語を読み返した今、何となくだが、狼が姿を隠し、少十郎の様な猟師も減った現代の森で、計らずも王者となってしまった熊の孤独を思ってしまうのである。


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なめとこ山の熊 青空文庫 こちらで全文を読めます。








by kokemusuniwa | 2018-04-23 12:53 | 民話 伝承

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